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青木さやかがテレビから消えた本当の理由が衝撃的すぎた

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青木さやかがテレビから消えた本当の理由が衝撃的すぎた

青木さやか「娘に触れる母に抱いた嫌悪感。最期にわだかまりを解消しようとして」

3/16(月) 12:00配信

婦人公論.jp

長年にわたり母との確執を抱えていたという、タレントの青木さやかさん。現在発売中の『婦人公論』3月24日号で、ご両親を看取った経験を語っています。わだかまりを解消するために掲げた目標とは…(構成=田中有 撮影=川上尚見)

【写真】病気をしたからといって母が丸くなるわけでもなく…

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◆「ごめんね」の一言が言えないまま

2014年に父を、19年の秋には母を見送りました。どちらも愛知県にいたので、近くに住む弟や親戚が主に通ってくれて、私はたまに顔を出すだけ。看病や介護の戦力にはあまりなっていなかったと思います。それでも、2人を見送ることを通して、私が得たものはとても大きかった。

成人しても、結婚して子どもを産んでも両親といい関係を築けなかった私が、考えを改めるひとつのきっかけとなったのが、父の死でした。

私が中学生の頃に母と離婚した父とは、長いこと連絡を取り合っていませんでした。それでも、娘が小学校にあがってからは、ぽつぽつと会うようになっていたのです。父は孫に会いたいし、娘もおじいちゃんに可愛がってもらえる。3人で名古屋の父の家で会ったり、父が私の家に来たりして、私は親孝行した気分になっていたんですね。

でも、私と父とのわだかまりや溝みたいなものがなくなったわけでは決してありませんでした。私は父と正面から向き合うのが怖くて、ずっと娘の陰に隠れていたのです。

そんな関係が続いていたある日、父と電話で娘について話すうち、言い合いになってしまいました。私は父が放った「お前の育て方が悪いんだ」の一言でカッとなって、「私のことを見てもいなかったのに、よくそんなこと言えるね」と猛反論しました。まさか、それが最後の会話になるなんて……。

しばらくして、父が家で倒れたと弟から連絡が入りました。「気がつかないうちに病気が進行していた。危険なのですぐに手術する」と。まだ父も60代と若いし、いままで何度か大病から回復していたので、私は「元気になったら、父と向き合おう」と悠長に構えていたのです。そうしたら術後の回復が悪く、父は急に危篤状態になってしまいました。

新幹線で駆けつけ、病室を訪れると、父の意識はほぼない状態で、コミュニケーションもままならない。病院の関係者や親戚がいる前で、「この前はごめんね」とも言えず……。そのうちに何日かして持ち直し、容体が急変するとまた病院に呼び出される、というのが数ヵ月続きました。

期待したり落胆したりの繰り返し。これが本当にこたえて、精神的にも肉体的にも限界でした。そしてとうとう謝ることができないまま、父は弟と母に看取られ、亡くなったのです。

◆娘に触れる母に抱いた嫌悪感

父との不本意な別れは、私の心に大きな傷跡を残しました。そして、「父のときにできなかったこと」が母を看取るときの課題となりました。そのことをお話しする前に、私と両親との確執について、説明しなければなりませんね。

父と母との思い出――特に幼少期の思い出は、お世辞にもいいものとは言えません。私、両親にほめられた記憶がないんです。

2人とも教師で、仕事が忙しく、私と3歳下の弟は、母方の祖母に世話をしてもらっていました。地元では「学校の先生をしている青木さんの家のお子さん」ですから、成績にうるさく、ふるまいや発言にしても、細かくしつけられました。

特に母親は、最後は小学校の校長まで務め上げた、地元では名の知られた人でした。私はそんな、何よりも世間体を気にし、嫌と言うほど私にいろいろなことを注意していた母が、父と離婚したことにも納得がいかなかった。

離婚後は母と弟と私の3人で暮らしていましたが、次第に、母が押しつけてくる価値観に激しく反発するようになっていきました。母は「就職するなら公務員がいい」というように、一方的に決めつけてくるタイプ。それが嫌で、じゃあ、公務員にだけはならない。母が嫌がることにチャレンジしよう、と決めました。母への反発が30代の頃の原動力だったとも言えます。

いま思うと、私は親にありのままの自分を認めてほしかったんでしょうね。ここにいるだけでいいよ、と言ってほしかっただけだと思います。両親に認められなかったことがコンプレックスだったのか、私は自己肯定感が低い人間になっていました。タレントのお仕事をしてほめていただいても、自信がないから信じられない。いくらスケジュールが埋まっていようとも、苦しかったですね。

こうした両親との確執を話すと、よく「子どもができれば変わるよ」と言われたりするのですが、私の場合は違いました。

娘を産んですぐ、母が私の病室に来て、娘を抱き上げたときに、なぜか急に「触らないで」「早く帰って」と、激しい怒りが湧き起こったんです。でも当時の夫には「自分の母親にそんな感情を持つことが信じられない」と、強く非難されて……。理屈ではわかっているんですが、嫌悪感は自分でも抑えられない。それを理解してもらえないことも、つらかった。

それでも名古屋で仕事があるときや、学校の長期休みには、母のところに娘を連れて行きました。思えば私は父にしたのと同じように、孫を見せて親孝行をしているつもりになっていたんです。母も孫を慈しみますし、一見するとおだやかな家庭の風景ですよね。

でも、しばらくすると些細なことをきっかけに、母に対していら立ちを覚えてしまうんです。母は私の娘に「どうしてわからないの」という言葉をぶつけたり、漢字の練習で何回も書き順通りに書かせたりしている。ああ、私もこうやって言われていたと思い出し、嫌な気持ちになって。そのうち、母が娘に話す何気ない言葉が気になりだす。

たとえば母が「今日は雨が降って嫌だね」と娘に話しかける。すると、「雨が嫌だと決めつけるのか。雨も楽しいじゃないか」という思いが湧いてくる。昔、よく家で聞かされていた「高卒だからダメだね」みたいな一方的な価値観への反感がガーッと溢れてくる。だから娘を母に預けるときは、仕事だとか友だちとの約束だとかでそそくさと出かけ、母と長い時間を過ごさないようにしていました。

◆自分が楽になるために

そんな母が悪性リンパ腫を発症したのは、父が亡くなる少し前のことでした。抗がん剤を投与されて寛解し、再発したら治療するということを、亡くなるまで数年、繰り返しました。副作用には苦しめられましたが、抗がん剤が効いた後は、いままでと同じ普通の生活に戻る。

たまに娘を連れて行けば、母は相変わらず“指導”するし、私もやっぱりイライラしてしまう。病気をしたからといって母が丸くなるわけでもなく、私もマザー・テレサのように優しくはなれなかった。この期に及んでもなお、わだかまりを根深く持ち続けている自分が嫌でしたね。

こんな自分を変えよう、と思ったのは、知人のひとことがきっかけです。私は数年前から動物愛護のNPO法人のお手伝いをしていて、そこで知り合った、とても尊敬できる創始者の方に、母のことを相談したんです。すると彼は、「親というものは大事にしなくちゃ」と言います。それは、これまで知り合いからもトーク番組でも、うんざりするほど言われてきた言葉。でも、続きがありました。

「そうしたほうが、自分が楽になれる。生きづらさがきっとなくなるから、やってみたら」と。彼に言われると不思議とできる気がしました。それに、父と仲直りできなかった私は、複雑な思いを抱いていましたし、病気の母と過ごす時間はもうあまり残されていないかもしれない、と気になってもいて……。

母とのわだかまりを解消する、これが最後のチャンスかもしれない。そう思っていたところに、背中を押してもらえた感じでしょうか。「うーん仕方ない、それじゃやってみるかぁ」と、心を決めたのです。

では具体的に何をするか。私がもし母の立場だとして、余命いくばくもないとき、娘が何をしてくれたら嬉しいかな、と考えました。不機嫌にやってきて、お土産やお金を渡されても悲しい。私なら、娘が毎日楽しく暮らしていることを報告されるのが一番嬉しい、それを私もやってみよう、と思ったんです。

◆母に会うたび課題を設けて……

その頃、母は最後の抗がん剤治療を終え、すべての身仕舞いをしてホスピスに入っていました。私は仕事もあるので、週1回のペースで母を見舞います。自宅を車で出て東名高速を走り4時間半から5時間くらい。毎回行くたびにテーマをひとつ、自分に課すことにしました。

「今日は娘の楽しかった話をする」「病室からエレベーターまでいっしょに歩く」「母の手をさする」……。どれもこれも、普通の母娘なら日常的にしていることでしょう。でも私にとっては難しい課題なんです。私は母と、日々の些細な会話というものを、交わしたことがなかったのですから。

最初は、娘を連れて母を見舞っていましたが、ふと「これでは父のときと同じ、親孝行をしている気になっているだけだ」「母と正面から向き合わなくては」と思い、一人で行くことにしました。

家を出て高速でハンドルを握りしめ、「さぁ、やるぞー、今日は絶対、手を握るんだー」と自分に気合注入。病室の前に立ったら“元気で明るい私”を演出して「こんにちはー!!」みたいな感じでドアを開けて……(笑)。帰りの車では、「頑張った、やった、私はえらい」って自分をほめちぎりました。

課題も、クリアするごとにより難しいものを設定していきます。「むくんだ足を優しくマッサージする」「アロマのクリームを首筋に塗る」とか。「感謝の気持ちを手紙に書いて渡す」という課題もクリアしました。「今まで、私はいい娘じゃなかったね。ごめんなさい」と……。母の反応は見ずに帰ってしまいましたが。(笑)

何度も挫折しそうになりました。病人ですから、調子が悪ければいっそうわがままになる。スッキリしない気分で部屋を出たこともありますし、毎回、へとへとに疲れ切りましたね。仕事終わりで深夜に出発し、未明に着いて、個室に併設された狭いスペースで、倒れ込むように休んだこともしょっちゅうでした。

母は最後まできちんとした人だったので、私が疲れて横になっていても、朝の8時を過ぎると「布団を畳んで」と、10分おきに催促してくる(笑)。新聞はテーブルの右上、メガネはその横。母の厳格なルールに従うと、とても満足そうでした。

そして母と同じ部屋の空気を吸うのも耐えられなかったところから、最終的に普通の母と娘の他愛ない会話を交わせるまでに、関係を修復できました。「今日、何食べた」「新聞のあの記事は読んだの」とかそんなことです。母から「ありがとう」と言われることも増えたような気がしました。

母は、娘の中学受験とか、勉強の相談に乗れなくてごめんなさい、なんて謝っていました。私としてはそういう面での期待は全然していなかったのですが……(笑)。母は私のことをやっぱり少しも理解していないけど、私の役に立ちたいと思ってくれていたんですね。

母がいよいよ危ないとなった頃、私は舞台の稽古が始まっていました。父のときに疲弊してしまった経験から、私を含む家族や親戚みんな、体調を崩さず、普段通りの生活を送りながら準備をしましょう、と決めていたのです。

そして19年の10月、母は旅立ちました。私は父のとき同様、死に目に会うことはできなかった。でも、後悔はなかったです。私が母に対してずっとぬぐえなかった、「母ではなく教師じゃないか」「母ではなく女じゃないか」という思いがどうだってよくなり、「母といえど人間」ということが、頭だけではなく心にストンと落ちていました。

葬儀後、母の友人たちから聞く母の人柄は、私の知っているそれとはまったく違いました。いかに母の一面だけしか知らなかったのかを思い知らされる日々です。

同年代の友人たちと話すと、近い将来に訪れる親の介護を「できればやりたくない」と言う人がほとんどですね。私は自分の経験から「頑張ってみてもいいんじゃないかな。自分が楽になれるよ」と思ったりします。母との関係がよくなったら、ほかの人間関係もよくなりました。いつも心の中にあった怒りみたいなものは、不思議とないです。

亡くなる直前、母は私に手紙を書いて渡してくれました。実はまだ、封を切らずに持っているんです。もしかしたら教師特有の指導や評価めいたことが書いてある可能性も捨てきれませんが(笑)。それ以上に、開けて読んでしまうのがもったいない。娘が結婚するときや、いよいよ私があの世にいくときになったらやっと読めるかも……。いまは、そんな気がしています。

(構成=田中有、撮影=川上尚見)

青木さやか

出典:婦人公論.jp

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